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鬼滅の刃より進撃の巨人が好きな理由

鬼滅の刃」も「進撃の巨人」も好きな漫画ですが、どちらかというと「進撃の巨人」のほうが好きです。

その理由は、「進撃の巨人」のキャラクターはみんな「悪」と「善」どちらにもなりえるからです。一方で、「鬼滅の刃」のキャラクターには「悪」か「善」しかありません。

*ネタバレ含みます*

例えば「進撃の巨人」では、主人公のエレンの村が巨人に襲われて復讐を決意します。この時、読者の目にはエレンは「善」、巨人は「悪」です。やがて、ライナー・ベルトルトが村を襲った主犯格であったことが明らかになります。ここでもライナー・ベルトルトは「悪」です。しかし、物語が進むにつれて巨人は元人間で刑罰として巨人にされていることを知ります。ここで、巨人は悪になりきれなくなります。ライナー・ベルトルトも親の期待や国のイデオロギーを背負って、国のため祖国の家族のために侵略を決行しました。まだ幼い子供の彼らが、大人が作ったレールに乗って、家族を喜ばせようとしただけでした。話の中盤で、ライナー達は「悪」になりきれなくなります。悪だと思っていたキャラクターたちの動機を知って、段々と共感できるようになります。

一方、最初は「善」として描かれていたエレンは海を渡り、ライナー達の祖国を襲撃します。ここで罪のない人たちも巻き込まれて、命を落とします。ライナー達が行ったことと同じようなことを行うのです。話の中盤で、エレンの「悪」の側面も見えてきます。

人間にはいろんな側面があって、完全な悪人もいなければ、完全な善人もいません。見る人、関わる人によって、同じ人を見ていても善悪の割合は変わります。この善悪にグラデーションがあることで、キャラクターの奥深さが描かれるんだと思います。

 

鬼滅の刃」は、鬼滅隊の面々はすべて「善」として描かれています。主人公の炭治郎に切られる鬼から見たら、炭治郎はよほどの悪人に見えると思いきや、感謝する鬼も出てきます。感謝までいかなくても、基本的に鬼は「悪」、主人公は「善」で話が進みます。勧善懲悪ものですね。

鬼の背景が丁寧に描かれていて、鬼も完全な悪とは言い切れないような描かれ方をしていますが、人をたくさん殺して食べてる時点でどうしたって「善」にはなれません。グラデーションも作れません。

水戸黄門と同じくくりで、「鬼滅の刃」も好きです。最後まで読みましたしね。ただ、主人公が「善」しかないのでキャラクターが一面的になっていると思った次第です。