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聖書と名画:新約聖書編

旧約聖書偏に続いて、新約聖書偏の感想も書いてみたいと思います。

前回の記事はこちら↓

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読んだ本はこちら↓ 

新約聖書は、イエス・キリスト誕生から最後の審判までが語られています。

旧約聖書は、国の繁栄や没落など歴史書のような大きく俯瞰的な観点で描かれていた印象でしたが、新約聖書イエス・キリスト個人の物語といった印象です。

イエス・キリストの誕生が誕生して、ヨハネから洗礼を受けて、数々の奇跡を起こしながら信者の数を大きくしていきます。

キリストは、たくさんの信者の中から12人の弟子を選び、これを12使徒と呼びます。

キリストはそのうちの一人であるユダに裏切られて、十字架で磔にされて一度死を迎えます。

しかしその3日後にキリストは復活し、使徒の前に現れて全世界に伝道を行うように伝えて天に昇っていきました。

 

旧約聖書と比べて大きく違う点は、「飴と鞭」ではなく「飴と赦し」がテーマになっている点だと思います。

旧約聖書では、神に逆らうものは死という鞭が与えられることが多くありました。

新約聖書では、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」といったように、たとえ逆らうものにも「赦しや慈しみ」が与えられます。

例えば、キリスト教徒を迫害していたパウロは奇跡を目の当たりにして回心し、キリスト教を伝道する道を選びます。旧約聖書のように罰を与えるのではなく、奇跡を起こして敵を味方につけています。より教義的で道徳的な内容になっていると思います。

 

興味深いことに、キリストを捕らえたのはユダヤ人たちでした。キリストが自分が神の子であると自称していることを、神の冒涜だとして死刑にしました。ユダヤ人たちは、同じ神を信じているからこそ、信仰の対象の子を名乗ったことが罪深く感じたんだと思います。

ここで、ユダヤ教旧約聖書だけを聖書としている理由がわかりました。キリストを神の子と思っていないので、キリスト中心で物語が進む新約聖書は聖なる書物とはなりえないということでしょう。新約聖書ユダヤ人と、キリストに対する基本的な考え方は変わっていないということですね。

 

また、キリスト教には伝道師がいる理由もわかりました。

キリストが使徒に命じたことを、ずっと実施してきたんですね。一方、ユダヤ教旧約聖書を信じています)は、伝道ではなく血縁によって宗教が受け継がれています。もしも新約聖書を聖書としてしまったら、これも成り立たなくなってしまいます。

 

個人的に、ラファエロの絵画が好きなので、絵画の背景の物語が知れて楽しかったです。

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小椅子の聖母ーラファエロ

この絵は、聖母マリアと幼いキリスト、右にはキリストを洗礼したヨハネが描かれています。ラファエロの絵は、女性や赤ちゃんがふっくらしててかわいいと思ってます。